ハルモニアの抛物線

西洋古典音楽評論家・丸山桂介のブログ

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    今日に、バロック音楽を主たる領域として用いられる「古様式」という名称は、本来特定の「様式」を指すものとしてではなく「古様式」が何を指すか、ということに関する明確な検証も行われないままに、何となく、パレストリーナ様式、若しくはパレストリーナの作品の響きの構造に似ている音楽を指していわれる、と判断して間違いはなかろう。

    一般的に言えば、さしたる問題がそこに在るとは考え難いであろう「古様式」ではあるが、しかしその意味を特定するのは予想を越えてはるかに困難である。

 

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    最も無難であり、かつ大雑把でありながらも正しいのは「古」に対する「新様式」が成立する以前の音楽を「古様式」とすることである。その場合の「新様式」は「伴奏」若しくは歌を支え、歌と共鳴しながら、歌の傍らで独自の響きを作り出す器楽パートが音楽の公的活動の場に姿を現すことによって作り出された音楽の形態であって、即ちその「伴奏」は、最も代表的な事例で言えば、バロック音楽に特有の「通奏低音」である。

 

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    バロック音楽の時代は17世紀に、より具体的に言えば1600年頃に始まるという場合、その「バロック音楽」は「オペラ」にほぼ同義であり、それ迄ヨーロッパに存在しなかった「オペラ」と呼ばれることになった古代ギリシアの「悲劇」が音楽を伴うドラマとしてフイレンツェの「カメラータ」によって創出されて「新様式」は成立したと判断し得る。

    これを異なる側面から捉えるなら、幾らか大雑把に言って、教会で用いられたミサ・典礼の音楽に対して、新たに、教会に代わる「劇場」が「新様式」を必然させたということになるであろう。

    この点から言えば、18世紀にオーストリアの作曲家フックスが自らの著作の中で、パレストリーナに代表される「教会(音楽)様式」に対する「新様式」を「劇場様式」としたのは歴史的に捉えても正しい判断であったということになろう。

 

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    音楽の世界ではルネサンス以降の音楽を区分してしばしば「宗教(教会)音楽」と「世俗音楽」に分ける。後者の「世俗」についてはそれが何を指すか、概ねの理解はなされているであろう。少なくともフランス革命に先立つ時代のそれは社会構造的にも広く知られて宮廷と劇場の区別はなされている。それに対して「教会音楽」の場合は、宗教改革以降の教会の動きを踏まえてカトリックとプロテスタントの区別はなされても、音楽の演奏の場に関しては殆んど問われることがなく、新・旧の様式上の区別に重要な鍵を握ることになった「ア・カペラ」という用語の詳しい説明も充分になされているとは言い難い。

 

    「ア・カペラ」と「古様式」を定位させることになったローマのシスティナ礼拝堂は「礼拝」の場としてではなく、今日ではミケランジェロのフレスコ画を有する「美術館」として世界にその名を轟かせている。だが音楽史における新・旧の様式について問うのであれば、先ずはここを「礼拝」の場に戻す作業から手を着けねばなるまい。

 

    システィナとア・カペラ、フックスと、意外に思われるであろうがブルックナー達の響きを捉え、その意味を問うことがひいては「古様式」を明らかにし、更にはバロック音楽を「宗教音楽」として眺める目を養うであろう。(続く)


Michelangelo


戦いに敗れてエルサレムの惨状を詩に託した『哀歌』のエレミヤ。しかしミケランジェロはシスティナ礼拝堂の一画に描いてエレミヤは思索に沈んだ。目前の、人の惨禍を遥かに超えて高く、エレミヤは「神律」に想いを馳せたという。瞑想する「神の人」エレミヤ。

「古様式」と呼ばれる作法の実践の場はシスティナ礼拝堂であった。古様式は第一の、即ち「響くシスティナ」であり、この礼拝堂に、かつ、第一の実践を採った宗教改革の、トリエント公会議における音楽への要請に不可分である。


〔1〕音楽の歴史に「古様式」はほぼ日常化して耳慣れた「名称」にはなった。だが、それが耳慣れた「概念」になったわけではない。名称の独り歩き。このことは注意されて然るべきである。

〔2〕モンテヴェルディと「古様式」という対置の構造は成立するのであろうか ー もしもこの「名称」即ち「古様式」の出所をモンテヴェルディのマドリガーレに求め得るのであれば、問題の発端に存するのは僅かに「一声部」の書法であるに過ぎない。 
 アルトゥージの批判に根差す「古様式」に関わる問題は、即ち別言して或るパートの書き方に対する考え方の相違に由来するものであって、いうなれば、単なる意見の相違であるに過ぎない。
 伝統的な作法・書式に外れたことへの批判に対して、モンテヴェルディ兄弟が述べたのは、従来のものとは異なる作法・実践法の存在であった。
  但し、ここでいわれる実践は単なる実技の枠に収まるものではない。何等かの事柄に関する論理的把握を前提として、その論理、もしくは論理化されていま目前に在るそのものを何等かの形で表わすことが実践と呼ばれる肉体的作業に他ならない。
 モンテヴェルディの時代が、フィチーノの活動したフィレンツェのルネサンスから時間の経過という側面からして遠く在ったとはいえ、モンテヴェルディの思索の世界でフィチーノは生き活動してモンテヴェルディに或る「在るもの」について語り説いた、思索の世界を共に生きた同時代者であったことを、忘れてはなるまい。
 いうなれば、恐らくはアルトゥージに於いても同様に、モンテヴェルディの創作の世界は古代ギリシアにおける哲学の世界と同一の構造を持つ、思索と実践が楯の両面を成して渾然一体となったハルモニアを響かせていたに違いはないであろう。

〔3〕モンテヴェルディよりもはるかに明確に、自分の音楽は「新様式」であると宣言したハイドンに対して、ハイドンの「ロシア四重奏曲」に先立つ音楽を「古様式」と呼ぶことはなかろう。

〔4〕ベートーヴェンは晩年に歩を進めて「古様式」の研究に時の過ぎるのを忘れた。しかし、それにも拘わらずベートーヴェンの後期作品を「古様式」の名で呼ぶことは無い。謎の「古様式」 ー その探求には測りがたく困難な壁が立ち塞がっていることを覚悟せねばなるまい。

〔5〕バッハが行った、パレストレーナ式作法の研究・実践に関して纏められた『バッハのstile antico』(ヴォルフ)の「antico」を「古い」という訳を当てると同時に、そこに「古典古代」の意味をも読み取り得るのであれば「stile antico」はむしろ「古典的スタイル」と解するのが正鵠を射ることになるであろう。改めて言うまでもなく「古典」は「範例」を指すことからして、パレストレーナ式作法はバッハにとって、ベートーヴェンにとって、ブラームスにとって、何等かの事柄を形にして表わす際の古典的範例、即ち「クラシック」であった。 
 範例は表現法の手解きはするが強制執行はしない ー もしもバッハの作品中の幾つかの作例を「古様式」として捉えようとするのであれば、そこにひとつの矛盾が存することを容認せねばなるまい。バッハの「古様式」は「新様式」の装いをとった「バロックの顔をしたパレストレーナ」だからである。何故か ー【続く】

    

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